河合 伸昭 先生 昭和56年4月~59年3月 数学科
◆清友高校での思い出深い出来事
私の高校時代は岡山の西大寺と言うところで、高校生活はほとんど波風のない平穏なものでした。
清友に赴任した当時は、毎日のように何かが起こり違いに驚いた記憶があります。
自分の高校時代は、行事も予定通りに進むものがほとんどで、生徒は教師の計画通り動くだけだったような気がします。
しかし、清友では修学旅行も先生方が細かく関わり、その期間、ほとんど寝る時間もないような状態で無事終わった後は、ほっとしたものでしたが、その帰ってきた早朝の校庭で浜田先生のクラスが西硲君を中心に、当時テレビでヒットしていた武田鉄矢の金八先生の主題歌「贈る言葉」を全員で歌っていたのが印象に残っています。
また、みんなも忘れられない清友太鼓、最初は授業中でも、バチでなんでもかんでも叩いていて、授業にならず、どうにかならないかと思っていましたが、清友祭の演技の後には、確かに何かが変わりました。
全員でまとまって何か一つのことに打ち込むという事が必要だったのでしょう。
それに尽力された森口先生、定年を過ぎたばかり、ちょうど現在の私の年で亡くなられたのは残念です。
◆教職に就いてからのこと
数学という教科は、高校生にとって好き嫌いの分かれる教科であり、当時の清友は嫌いな人の方が多かったような気がします。
最初は、論理的に間違いなく「こうだからこうで、こうなる」と教えれば大体分かるだろうと考えていたらそうでなく、何をプラスしたらいいかと悩みました。
しかし、何で分からないかは、ひとりひとり全て違うので、これは数学の教師をしている限り、ずっと考え続けなければならないことです。
うまくいった、良かったと思えたのは、三年の進路結果でした。
一、二年は副担任でしたが、三年で担任となることになり、医療・看護系志望の生徒をクラスに集めてもらいました。
希望者は二十人ほどいましたので、クラスの女子はほとんど進路希望が同じでした。
当時は、看護士(昔は看護婦でしたが)になるのは難しく、高看(昔は高看、准看とありました)には清友から一人か二人しか合格していませんでしたが、早朝・放課後も補習をし、みんなもついてきてくれ全員が進路希望を実現できたのはうれしい記憶です。
このとき、英語も特訓し、テキストに使ったのが「不思議の國のアリス」した。
訳本でも、一度本物を読むとおもしろいですよ。
◆教師を職業に選んだ理由
私は、大学では数学科ではなく、生物工学科という学科でした。
今でこそ、生物関係は数理生物学、バイオエンジニアリング、遺伝子工学最近ではIPS細胞など、数学や工学と結びついて大発展していますが、私の大学時代はまだ芽生えの時代でした。
石油ショックというのもあり、これといった就職先はあまりないという状態でした。
研究室に籠もって、大学に残るという道も考えましたが、それよりも人間相手の方が向いてるかなと思い、教員採用試験を受けたわけです。
教師になってから、高校生の相手は大変だというのは痛感しましたが。
◆近況
定年になって、二年目ですが再任用ということで、郷里の岡山県の岡山南高高で教員をやっています。
学校は商業科と家政科の専門高校ですが昔は、野球が強く、甲子園ベスト4もあり、今のジャイアンツの川相ヘッドコーチも、ここのOBです。
大阪から岡山に帰って、すぐ定時制高校勤務の頃、十数年ほど前ですが、メイジュ症候群という変な病気(本体性眼瞼痙攣といい、瞼や顔面の筋肉が痙攣する病気)にかかり、歩くのもままならない時期もありましたが、現在は痙攣止めの注射が開発され、日常生活には不自由しません。
剣道も一時中断しましたが、まだ続けており剣道部の顧問で、七月二十四日からは九州福岡の玉竜旗にいってきます。
来月は、中四国インターハイで剣道が岡山開催、岡山南は練習会場になっていますので、その世話です。
数学の方は、どう教えればよいか試行錯誤していましたが、五十を過ぎてからグラフ電卓に出会い(ICTの趨りのようなものです))、それを用いて、いろいろ授業改革を試みています。
数学教育の全国大会では、今年で十一年連続で発表することになります。
アメリカでのグラフ電卓の研究大会にも行き、シアトルのワールドトレードセンターで発表してきました。
韓国でも三回ほど、公開授業を行い、四年前の韓国での国際数学教育会議に、招待され、ソウルのCOEXモールで韓国の先生約200人を対象に、研修授業を行いました。
皆さんのお子さんが、高校・中学の方も多いと思います。
数学のことで何かご質問、ご相談あればメールして下さい。
nobuaki_kaai@pref.okayama.jp.
-追伸-
剣道は大学OBの大会にもでています。
今年も、たぶん十二月の第二土曜辺り、舞州アリーナの関西学生学連大会に出場する予定です。