樋口 全毅(ひぐち まさたけ) 昭和43年4月1日~昭和60年3月31日

♪♪♪♪♪   先生に聞きました   ♪♪♪

《清友高校での思い出深い出来事》

 振り返れば、実にいろんなことがありました。幸い、人に恵まれ、健康にも恵まれ、

 結局45年の教育現場での仕事を全うできたことはありがたく思っています。
 清友高校が八尾市立から大阪府立に移管され男女共学となった直後、府立5期生の
 学年主任として新しい学校づくりに立会いました。PTA、教員、生徒が一体と
 なって、集団活動の質を高める事に取り組みました。秩序ある学校生活の確立。
 生徒主体の実行委員会組織でのスキー修学旅行、体育大会、文化祭、卒業式等の
 実現でした。大阪の劇団から専門的技術を学んだ「清友太鼓」を文化祭で実行委員
 生徒・教員により披露しました。まさしく新生清友の誕生でした。自己の願いを
 表現・実現することは、「ルールの遵守」から成り立ちます。ゲリラ行為はあき
 ません。有為な社会人となるべく生徒の皆さんが、自分たちの願いを実現するため
 の手段を学んでほしいと願っていました。 

 清友での勤務は17年間でした。その間10度の担任をさせていただきました。
 学年主任は6度、ソフトテニス部顧問17年、ハンドボール部顧問2年(私と結婚
 する妻、田井稔乃がハンドボール部顧問。ドイツ留学に伴いその代役。なんか、
 おかしいとは思ったが、責任?感じて掛け持ち顧問を引き受けました。)
 クラス活動も部活も貴重な青春の記憶。将来のために、当時の目線で残すべきと
 考えていました。自分の意見や感想、主張や決意を文字で表現すべきと思ってい
 ました。各行事毎に、ほぼ毎月のクラス総括文集を発刊しました。部活動のすべて、
 一年間の練習試合、公式試合記録と寸評、感想を部誌に掲載しました。永久に保存
 できるようすべて知人の業者に発注して、製本しました。私にかかわった生徒の
 皆さんは大変だったでしょう。毎月原稿提出です。書くことの習慣化を願っていま
 した。それが、20年後の同窓会に「同窓生の近況を綴った冊子」発刊してくれた
 のはうれしい事です。書くことは大切です。書くことは自分の決意を表明します。 

 部活動は、ハンドボール部は専門外で充分なことはできなかった事、改めて陳謝。
 ソフトテニス部は私の専門。1968(昭和43)年顧問に就任以来「スポーツしか
 出来ない人にはなるな」「部員の多いのは魅力あるクラブの証」と言ってきました。
 運動部でありながら文化祭に参加。部誌の発刊もしかり。そして、部員は他部と
 比してのダントツの大所帯。個人の練習量は削っても、集中力と工夫で、勝てる
 クラブは実現できる。ある意味では、理想的な部活動を指導させてもらいました。
 女子は、個人大阪府第3位、近畿インドア大会出場、中央大会出場常連校の位置を
 確保。男子は54年の男女共学の翌年、たった1年半の創部で大阪府団体第3位、
 個人近畿大会出場を果たしました。そして、なによりもうれしいのは、選手として、
 趣味としてのいろんな立場の違いはあるけれど部卒業生達が、今もテニスを楽しん
 でくれていることです。そして、清友高校で初心者としてテニスに取り組んだ
 男女卒業生が、同時にソフトテニス全日本社会人でベスト10に年度ランキング
 されたことです。男女同一高校でのランキング選手の輩出は、全国でも稀と言えます。
 清友生は頑張っています。


《教職に就いて楽しかったことや辛かったこと》

 教職という仕事に。、最善を尽くしたと思える事はありがたいことです。

 今、振り返れば、楽しきこと多かりしです。

 

《教職を選んだ理由

 一生かけてやる仕事は、営利に関係なく「世の中の役にたちたい」と思っていた。


《近況報告

  今年71歳。まさか自分が「古希」を迎えるとは思っていませんでした。

 年相応に身体に不都合ありですが、気にせず元気にやっています。
 週1回のテニス、陶芸、菊づくり、園芸、料理、篆刻、そして、そば打ちとやって
 ます。「日々是好日」でありがたいことです。

 

《占春会(卒業生)の皆さまへ

 清友在職中、皆さんからいろんな相談をお受けしました。今、悩みを抱えている
 生徒の皆さんに示した方向は、20年、30年、40年を経た時、間違っていた
 かもしれません。当時、真剣に、懸命に問題に対峙した回答なら、たとえ間違って
 いても、理解してくれるのではと思っていました。そして、それが間違いなら心
 から陳謝しようと思っていました。紙面を借りて、改めてお詫び申し上げます。

 母校清友高校は再編統合されました。廃校ではありません。「みどり清朋高校」が
 新たな母校です。卒業生の皆さんの、高校の在籍記録をはじめ、文書発行は「みど
 り清朋」が引き継ぎます。清友高校在職中、生徒の皆さんに言っていました。
 「教師は転勤で清友の教師でなくなる。卒業生は一生清友生です。だからこそ、
 皆の母校を大切に」と。母校は永遠です。占春会弥栄です。


《追記》

 ついつい長文になりました。ご容赦を。1977年、長崎原爆資料集
 第7~9巻に、清友の長崎修学旅行平和学習の取り組みが掲載されています。
 新聞、TVでも取り上げられました。100頁を超える、業者を通さず先生と生徒で作った自主編成の

 卒業アルバムも新聞に取り上げられました。

 安価な価格と重量感は圧巻でした。清友高校での紹介したい取り組みはまだまだ
 ありますが、紙面に限りがあります。いろんな事が、卒業生の一人一人の胸中に、
 清友高校の想いと共に生きていることと思います。皆さんと共に過ごした、清友に
 感謝しています。

 末尾になりましたが、写真に掲載させていただいた、妻・稔乃も1965(昭和40)
 年~1971(昭和46年)まで清友で教鞭を取っていました。結婚以来40年、夫唱
 婦随で元気にやっています。