大橋 睦夫 先生 昭和57年~平成5年 社会科(日本史、世界史、政治経済、現代社会)
◆清友高校での思い出深い思い出
☆佐古校長先生のお言葉……「うちで通用したら、府立高校のどこへ行っても教師できまっせ」のお言葉を初日にいただきました。五回目の採用試験で合格し、29歳でしたので背水での陣の出発になりました。
☆清友の会議は鬼でした……赴任初日の職員会議、昼の1時ごろから夜中の9時過ぎまでありました。以後転勤まで数千回の職員会議や補導委員会を経験しましたが、しばしば夜間、どうかすると深夜までかかりました。正直えらい学校だと思いましたが、結論が出るまでは終わらないという姿勢は、その後の教師生活で大変プラスになりました。とくに生徒の進路や懲戒にかかわる会議は厳しかったですね。今から思うと筋の通った学校でした。当時、教職員の平均年齢は30歳くらいでした、若さがあったからできたことかもしれません。
◆教職に就いて楽しかったこと辛かったこと
☆楽しかったこと
最初の授業で男子生徒と襟首のつかみ合いになったこと。転勤先で清友の卒業生が教師として赴任してきたこと(廊下ですれ違いざまに「大橋センセ覚えてはります?」ドキっとしました)
演劇部のコンクールで大阪府の最優秀をとれたこと。
振られっぱなしの人生でしたが、あわれに思ってくださった先輩や同僚の先生に何度も見合いのお世話をしていただきました。ちなみに今のカミさんも清友で紹介していただきました。
晩婚でしたので結婚式などしなかったのですが、数学の井上先生などが音頭をとっていただき、大橋の結婚を祝う会を開いていただき、100人ほどの方々が駆けつけてくださったこと。
☆辛かったこと
清友高校の廃校が決まったとき。
担任していた生徒が亡くなったとき。
現職や退職間もない先生が亡くなったとき。
親の介護と担任業務が重なりいっぱいいっぱいになってしまったこと。
◆教職を選んだ理由
母方ではありますが、江戸時代の寺子屋のころから先生でしたので、物心ついたころには、なんとなく教師になるのかなあと思っていました。
なってみて、たいへんな仕事であることを痛感しました。
◆近況報告
身体を壊して、55歳で早期退職しました。いまだに不調なので、同年齢の方々に比べると、あまり外出もしません。
稼ぎにはなりませんが、現在の看板は文筆業です。戯曲や小説を書いています。
紙の本は、なかなか売れませんので、好きな駄文をブログのかたちで出しています。ペンネームは大橋むつおです。Amazonや楽天などでも店ざらしの本がありますので覗いていただければ幸いです。
◆占春会に一言
同窓会の仕事ご苦労様です。占春会の他校の同窓会と違うところは、母校が、もう存在しないところですね。新しい会員(卒業生)が増えることがありません。また、母校そのものが無いので、物理的にも気持ち的にも寄る辺ないのではと拝察いたします。
しかし、他の統廃合された高校に比べますと、戦前からの長く豊かな歴史があります。それをよすがに末永くやっていただければと祈念いたします。
ときたま玉櫛川沿いを散歩いたします。いまは金光八尾高校になっておりますが、八尾市立時代の清友高校の敷地が残っています。よく見ればブロック塀や川にかかる橋などは市立清友のものかと思われます。また、北隣は清友幼稚園があり、幼稚園の文字の上には清友学園の文字が残っています。名前だけで、今は完全な別法人ですが、なにやら床しく思われます。
八尾一番の文化人であった今東光さんが生前に、こうおっしゃっていたそうです。「嫁さんもらうんやったら、清友高校の子ぉやなあ」